すっかりごぶさたしています。元気です。あけましておめでとうございます。
年末、父が亡くなった話の連載的なことをしたら、自分の中の「書きたい気持ち」がすべて搾り取られ、「はて?何を書いたらいいものやら?」みたいな気持ちになってしまいました。ようやくそれらが戻ってきた感じです。
補習校の年度末を乗り切った
加えて、日本語補習学校の年度末で、ヘロヘロになっていました。
子供が通う学校ですので、なぜ親がヘロヘロになってしまうのかと疑問に思われるかもしれませんが、親のボランティアによる関与は不可避なのです。
あまり詳しいことを書くと、どこのだれかすぐにバレてしまうので、書きたいけど書けないわけですが、とにかく、日本の学校と同じように、親には何らかの係が課せられておりまして、特に年度末に仕事が集中するようにできています。
平日、家でできることをチマチマとやり、各係やクラスの保護者、担任等に大量にメールを送り、土曜日には実際に会ってミーティング的なことを行います。
いろいろな考え、立場、都合を持った人たちの集まりですので、一筋縄ではいきません。何もかも思ったようにいきません。
学校ボランティアをする上での哲学
この場合、役に立つ哲学があります。少なくとも私には。
どうせ分かり合うことなんてできない
です。
私は私に課せられたタスクを粛々とこなし、ただひたすら、早く3月が過ぎ去ることを祈っておりました。
恐ろしいことに、これがほぼ毎年のように繰り返されています。
毎年1~3月は仕事に特化したアンドロイドのように、感情をどこにも乗せず、ただひたすらタスクをこなすマシーンとなります。これが私の処世術です。
「ずるい」と言ったら負けと思え
何かを考え出すと、やってられなくなりますし、どうせ誰かがやらないといけないわけです。怒り狂って「あの人は全然仕事をやらない、ずるい!」と言い切ってしまう人もたまにいます。気持ちはすごくわかります。やらない人は、本当にびっくりするくらいやりません。
でも、「ずるい」とか言い出すと、収集がつかなくなります。世の中は理不尽にできているのです。
ただ、がんばって何かをやり切った人にしか見えない世界もあります。
少なくともそう信じていれば、怒り狂うことなくやりすごせます。信仰みたいなものです。
最後の方は、「ずるいと言い出したら負けだ」と念仏のように唱えていました。何に負けるかは知りません。
繰り返しますが、信仰のようなものなのです。
そこさえ切り抜けられれば、あとは毎週、お弁当を持たせて、先生に呼び出されない程度の出席と宿題の提出をしていれば、補習校はOKです。
気持ちの二面性
このようにして、息子はまた進級しました。
「やめないの?」と一応聞いてみましたが、「やめない」ときっぱり言われました。
そのわりには、4月に入った途端に「また補習校が始まるー」とゲンナリしていました。
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