エメラルドシティでの輝かない生活

シアトル近辺でオットと息子の三人暮らし.子育てと日々の雑感.

東日本大震災から10年

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何にも覚えていないって言われました

震災から10回目の3月11日が過ぎました(日本はもう過ぎてる)。

 

あの日、何をしていたか、当時の自分のツイッターを掘り起こしてみました(現在はこのアカウントはクローズしてしまったんですが、データだけダウンロードしてあります)。

 

3月11日までは、息子がいかに電車好きか、というツイートが続いていました。あの時は2歳ですから、ちょうど電車全盛期です。

地震直後はまず息子の安否確認、保育園のWebカメラでは、子供たちがおやつを食べている姿が確認できています。とくに大きな混乱もなさそうでホッとしています。

私の当時のボスは気仙沼出身で、必死に電話をかけていましたが、まったくつながらないと慌てていました。ご実家がものすごく田舎らしく、しかも親御さんが頑固とかでインターネットは引いていないと言っていました。

その直後に、ニュースで気仙沼が燃えている映像が流れました。

ボスは震えていました。

あとは、先日書いた通りです。

 

震災後は原発、放射線、買い占めなどなど、あまりいいニュースはありませんでしたし、たまにある美談もどこか作られた感じであまり気持ちが揺さぶられませんでした。中でも大川小学校の惨事は、とても辛かった記憶があります。

 

確かNHK特集だったと思うのですが、大川小学校で教師をされていた方の親御さんが、自分の子供も被災者だけど、人前で悲しむのもはばかられる、謝罪し続けなければならない、みたいなお話をされていたのが切なすぎました。

 

当時、津波の様子を撮影していたカメラマンの話をまとめた note がとても話題になっていました。

こういう話ができるようになるまで、10年かかったんだなぁと思いました。

 

みんな自分の立場でしか当たり前ですけど物を見られないので、大川小学校にしてもヘリで上空を回っていた報道機関にしても、当時は相当風当たりが強かったと思います。

でも、あれから10年たって、ようやく落ち着いて物が考えられるようになり、いろいろなことが明らかになったりして、さらに自分たちの未来についても前向きに考えられるようになった時、自分を含めて全体がひとつ上のステージに来たような気がしました。

 

最後に、震災から1年後に読んで私が励まされたツイートを載せたいと思います。

 

そう!私の義従姉の娘ちゃんのお誕生日が、ちょうど3月11日なんです。

お誕生日おめでとう!素晴らしい年となりますように。希望ある未来が広がっていますように。